写真家小野啓が2002年から約10年間にわたって撮影した、日本全国の高校生の肖像写真。
小野は一環して、自ら被写体を選ぶことはせず、被写体募集の呼びかけに応募してきたすべての高校生のいる土地へ赴き、彼らの存在とその場所をカメラに収めた。
この高校生たちのポートレートには、「ひとりひとり」の取り替えようのない固有性とともに、はからずも彼らが生きている場所と時代が刻み込まれている。
帯コメントは『桐島、部活やめるってよ』の小説家・朝井リョウ。
気鋭の評論家・宇野常寛による論考も収録。
全ページが、物語の表紙。
ただこちらを見ている彼らの向こうには、何百通りもの物語が広がっている。
その制服を着るまでの日々、脱いだあとのこれからの日々。
彼らの物語すべてを、小野啓だけが写し出せる。―――― 朝井リョウ(小説家)
「 小野が写した少年少女たちの「顔」たちは、みんなどこか不器用で、ナイーブで、しかしその不器用さとナイーブさに自分では気付いていない。一見、自分は図太く、ふてぶてしく生きているよ、という顔をした少年少女の小憎らしい笑顔も、小野のカメラを通すと狭く貧しい世界を我が物顔で歩いている生意気で、そして可愛らしいパフォーマンスに見えてしまう。「応募者すべてを撮影する」というルールを自ら定めている小野の作品群は、思春期の少年少女が不可避に醸し出す不格好さを切り取ることになる。自らのカメラが写してしまうものについて、小野は彼が定めたもうひとつのルール─「笑顔を写さない」から考えても極めて自覚的だと思われる。その結果、僕ら中途半端に歳をとってしまった人間たちは、その不器用さや狭さにかつての(いや、もしかしたら今の)自分の姿を発見して苛立ち、痛みを覚え、そして愛さずにはいられなくなるのだ。」―――― 宇野常寛(評論家)
「これらの写真は単に都市と地方との均質化や差異を語るというだけではなく、ひとりひとりの存在感を通して、それぞれが生きている場所をあらためて捉え直すことでもあったと思う。それは、図らずも募集という方法をとり、これまで決して被写体の高校生を選んでこなかったために、いつからか被写体とそれに伴う撮影地のコントロールを超えたものになってきたからだ。もはや自分では制御することもできない写真の流れの中で、僕は彼らを撮るだけの存在でしかない。そして、そうすることを選んだ。」(あとがきより)
>赤々舎
赤々舎 2014年刊行 テキスト日本語/英語
サイズ 縦223×横290mm ハードカバー 344ページ