年明けに大阪から戻った私は、再び東京のエネルギーの渦に引き込まれていった。8月の旅へ向けて準備をする中、写真集の発表が決まり今まで以上に明確な目標ができた。出会いの喜び、別れの悲しみ、全てを生きる力にする。写真はそれを後押しし記録する。人がそれぞれに背負った業は、人を幸せにし人を傷つける。自分の写真は見た人の業を一瞬でも軽くし、解いていく。出会う人にとってもそういう人間でありたいし、自分の写真もそうでありたい。自分が人との関わりや写真や他の表現にそれを求めるように。深紅駆け巡るこの肉体が光を前に立ち止まり、鼓動を胸から投げたとき、決して止まることのないこの時を瞳の奥に刻み込む。
すべての写真は幻、出会うその時まで。
―――― 鈴木育郎
人にそれぞれ課せられた試練を「業」と呼べば、業は交差し絡まり、日々は至福と奈落を行ったり来たり。 試練を受けとめ乗り越えようとする過程で見えてくるもの、その瞬間を噛みしめ、味わい、表現が生まれる。 個人的であるその表現が他者の感覚、人生に作用するとき、両者の業が少なからず解かれる。
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写真は、撮影や発表によって、見る側の人をも被写体や風景として巻き込んでいく。 撮る側も巻き込まれて出会いが生まれる。 相手を意識して見つめあうとき、光が射し、絡まった糸が解けていく。
「解業」とはそのまま写真であり、一冊目にあえてこれを掲げることは、鈴木育郎の覚悟でもある。 ただ、業は解かれても、それはずっとは続かない。 その儚さをも抱きとめて、写真の光と「いま」がある。
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赤々舎 2015年刊行 テキスト: 日本語/英語
サイズ 縦173×横263mm ハードカバー 256ページ