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石川竜一: 絶景のポリフォニー | Ryuichi Ishikawa: A Grand Polyphony


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石川竜一 赤々舎

沖縄を撮り、「沖縄」を超える。新世代による鮮烈なカオス。

ポリフォニー(多声音楽)という言葉で表明された石川のスナップは、すべて自身が暮らす沖縄の生活圏で撮影された。自ずと沖縄の歴史や状況を写し込みながらも、沖縄の固有性にとどまらず、「沖縄」を超え出る普遍的にして圧倒的なエネルギーが充満する。 森羅万象、「それぞれが全く別のものとして別の価値をもち、主張し合っている」ポリフォニー的まばゆさのなか、繋がりのない互いの関係性に横たわる不可視の糸が浮かび上がる。 出会い頭の事故に遭ったような言葉を失うインパクト。 それを生む、現実に対する彼自身の強烈なアクチュアリティ。 目の前にあるものをできるかぎり受け入れようとする生身のような柔らかさ、心の震えーー 見る者をあらゆる囚われから解き放つ、生命の「絶景」がここにある。

okinawan portraits 2010-2012

絶景のポリフォニー
石川竜一

嘉手苅林昌の唄にある「唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世〜」そこには、沖縄の社会への皮肉と同時に、どこかに属しても無くならない、沖縄という小さな島のプライドのようなものを守り抜いてきた人々への愛がみてとれると思う。この島は、人間の欲と悲しみに振り回されてきた。だからこそ平和で豊かな南の島を夢見てきたし、そうであろうとしてきた。ただそれは、抑えることのできない欲と、それによって生まれるカオスをいつも孕んでいる。

ただ、そんなことは僕らの世代にとっては、生まれる前からある当たり前のことで、それをどうこう言う奴なんてほとんどいない。少なくとも僕の周りにはいなかったし、大人たちに尋ねたところで、そういった状況のなかでどう上手く生きていくかということは聞くことができても、そこからどうやって抜け出すかは誰もわからない。それは、例えるなら、争いと侵略の上で築き上げられた歴史そのもの、突き詰めれば人間の問題であり、何処かの国の人々が過酷な環境下で作ったチョコレートやコーヒー豆を、小さな頃から惜しみなく消費して来た僕ら、大人になりそのことを知っても慣れ親しんだその生活を変えることが出来ない、自分自身の抱える矛盾と、そのことへの苛立に返ってくる。

力強い自然があり、普通と思われる生活があり、楽しいこともそれなりにある。そんななかで僕らは、解消しようのないフラストレーションを抱えながら、起こるはずのない特別な瞬間を待ち、毎日を、ただ悶々と過している。

「なんくるないさぁ」(なんとかなるさ)、誰もが食べるために必死で働いていた時代の言葉だ。そのことがあまりにも容易になった時代に、あり余る「生きようとする力」がいたるところで溢れかえり、歪な、「生」の形を表出させる。そんなどこにでもある社会の一部分が、社会のストレスと比例するかのように、この島で大きく渦巻いている。そして、そんなどこにでもあるようなことは、ことさら騒がれることもなく、素通りされ、忘れ去られてしまう。

高台から見下ろす景色は、ゴツゴツとしたコンクリートや鉄のかたまりが地表に突き刺さり、体の刺青やボディーピアスを思い起こさせる。空き地に立てられた札には、「売地」、「県の管理地」など。資本主義社会は、死を悲しみや恐怖という負のイメージとして捉えた、ごく一部の特権階級の思想の上に成り立っている。しかし本当に悲しいことは、死そのものでも、殺されたことでもなく、殺そうとしたことであり、それが全ての人の心に住みついているということだ。そして、そんな社会は万人にとっては辛く過酷なものであり、それは理性によって過剰に抑えつけられる野性や身体性というふうにも喩えられる。生きる上で大切なことは、本や他人の話しから頭に叩き込んだことではなく、体験し、感じた野性のなかに、より生きている。それなのに、理性を盾にした思想は、巨大な生命体としての社会を管理するべく、生き型なんてものをつくりだす。生き方なんてものは、命に責任をもつこと以外にあるわけがない。真の理性は操作するものではなく、赦し、導くものだ。命は、生きること以外に意味をもたない。

当然のことだが、全ての存在や出来事は等価ではない。この世界でそれぞれが全く別のものとして別の価値をもち主張し合い、矛盾を抱えながら、ぐるぐる回るように進んでいく。だから、昨日の正解が今日の間違えでいいし、今日の嫌いが明日の好きでいい。もっと間違えを犯すべきだし、正解を確かめるべきだ。人間の存在、創造する力は生きることそのものであり、人は経験を基にして、それぞれの瞬間を作り上げていく。そして、そんな一つ一つのことにほとんど意味はない、全てのことはつながり、そのつながりのなかでだけほんの少し、それぞれに意味が生まれる。

現実はいつも過剰だ。そして、人の器はあまりにも小さい。自分の置かれた世界に向き合い、打ちのめされた時、その器は木っ端みじんに砕け散り、また無意識のうちに新しい器を形成しようとする。自分の居場所なんてものを探しまわる。全てが用意されているはずのこの世界で、自分の希望(経験したこと、もしくはそこから容易く導き出せること)に沿ったものだけを選び採ろうとしてしまうのだ。重要なのはそうではなく、今そこにあるものを、できる限り受け入れることだ。「研ぎすます」や「無駄を削ぎ落とす」ということは技術的なことではなく、自分の経験や培ってきた概念をできる限り捨て、今この時と向き合うことだ。そうすることで、これまでの鎖から解放され、また新しい「何か」が入ってくる。捨てて捨てて捨てて、今この時に捨てられずに残ってしまっているもの。それが今の自分のどうしようもないクソッタレのアイデンティティに他ならない。
>石川竜一
>赤々舎
赤々舎 2014年刊行 テキスト: 日本語/英語
サイズ 縦285×横297mm ハードカバー 160ページ
  • 5,500円(税込)