沖縄の島をバイクで駆け巡り、「めっちゃいいから撮らせて〜」「それ、おもしろいでしょ!」と、出会った人約3000人を撮影した。いま目の前にこの人がいるという状況と、この人を知りたいという思い。社会的な状況と人とは切り離せないという考えから、背景を画面に取り込もうとする。その人の本質やある一面を撮ろうとするのではなく、"今この瞬間のすべて"であり、目を通してその人を受け入れようとするポートレートだ。
沖縄で撮られた、沖縄の、沖縄人によるポートレートは、「私がこうです」と開かれた、生命の波が寄せてくる。そして、私たちそれぞれの中に、それらすべての人がいる。
okinawan portraits 2010-2012
まずはじめに、僕の前に立ち、生きることの素晴らしさ、一瞬の煌めきのような儚さ、全てを振り解くほどの命の力、沢山のことを未熟な僕に教えてくれた人々に心から感謝の気持ちを伝えたい。
僕らは、いつもどこかですれちがい、記憶の奥で埋もれてしまうほどの小さな残像となっていく。
ある人は借りた映画を返しにいくところで、
ある人は親の用事に付き合わされていて、
ある人はペットの散歩をしていて、
ある人は雨でずぶ濡れになっていて、
ある人は毎日決まった時間に決まった場所に行く習慣があり、
ある人はただそこで休んでいた。
仲間と戯れ、家の手伝いをし、塾や習い事に通い、恋人とデートをして、働き、ご飯の帰りで、買い物に行き、怪我や災難に遭い、酔っぱらい、ハメを外して、悩み、喜び、孤独に打ちひしがれて。
ある人は好きな人の話をしてくれて、
ある人は親への不満を打ち明けてくれて、
ある人は宗教の勧誘をしてきて、
ある人は戦争体験を話してくれて、
ある人は夢のような話を聞かせてくれた。
ある人は子どもで、ある人は大人で、ある人は男で、ある人は女で、ある人はどちらでもあった。
何もかもが不思議で、何もかもが当り前で、一人一人のなかにみんながいて、それぞれの命を強かに生きている。一瞬のうちに寄せては返していく波。そこに立った時、僕はただ、震えながらシャッターを切ることしかできない。
写真には自分の意識を超えたものまで写ってしまう。それを知っているにもかかわらず、写真について語り、思いを巡らせていくなかで、それがもともと自分のもっているもののような、高尚な気分に浸ってしまう。しかし、それは全部後付けに過ぎず、本当はただ、その人と、その場所で、その時にしかない、写真との出会い。それだけだ。そんななかで写真はいつも話しかけてきてくれる。「お前が探しているのはこれじゃないのか」と。しかし、それも断定はできないのだ。多分、永遠に。
2014年10月
石川竜一
(あとがきより)
>石川竜一
>赤々舎
赤々舎 2014年刊行 テキスト: 日本語/英語
サイズ 縦245×横255mm ハードカバー 180ページ